糖尿病と仲良く

「糖尿病と仲良く」


 インスリン依存型糖尿病の方からメールをいただきました。糖尿病と診断され、結婚、出産、低血糖性昏睡などを経験されています。前向きの姿勢と良きパートナーにめぐり合うことの大事さがよくわかります。きっと皆さんの励みになると思います。[平山純二]


一病息災の人生を前向きに・・
  (体験談と患者として思うこと)

【糖尿病とおつきいが始まる半年前から、さかのぼって】

 高校3年生、足がしびれる・・・・何か体に異常を感じるのだが生活に支障もなく、毎日楽しい高校生活を送っていました。近くの整形外科で「どこも悪くない」と診断された安心感だけで、微妙に感じる痛みとも言えない、足のしびれたようなけだるさは変わりませんでした。
 そして、父親に連れられて、大学病院でも診察を受けました。股関節の骨の形がおかしいので、それが神経を圧迫しているんじゃないかという診断でした。「簡単な手術で治りますが、このままほおっておいても差し支えない程度です」と、手術をするかどうかは、私と家族の意思に任されてしまいました。手術なんて大袈裟なことを言われたものだから、びっくりしました。でも、我慢できるからいい・・・と、そのまま、症状が変わらないまま高校を卒業。足の痛みは寒いときほどひどく、神経痛かもしれないとか、腰を曲げたまま伸びないとか・・・・、ひどくなる一方で、専門学校に進学しました。
 そのころです。私は鏡を見て、自分の体がまっすぐじゃないと気がついたのです。いくら背筋を伸ばしても、まっすぐじゃないのです。やっぱり、このまま我慢できない。もう一度病院に行ってみよう・・・・。夏休みを利用して病院に行ったときには、診察台の上で足をあげても30センチほど上げると腰がしびれるような痛みで、悲鳴をあげるほどでした。すぐに「椎間板ヘルニア」と診断され、入院して治療することになりました。できるだけ手術は避けたいと、3週間治療を続けてとりあえず生活に復帰したものの、痛みがなくなったわけじゃなく、とうとう、12月に入って手術をする決心をしました。手術は成功、3週間で退院。すっかり奇妙なしびれや痛みがとれ、しばらくはコルセットを腰に巻いて動きにくい生活でしたが、本当にうれしい毎日でした(股関節の骨の形がおかしいと言われたのは、いったい何だったのだろう?)。
 しかし 、この時4キロは体重の増加があったような気がします。そんなに気にしていないし、手術前の検査で尿の検査もしましたが、特に悪いということは言われませんでしたので、まさか、この半年後に、糖尿病という病名が私とお友達になっていくとは、思ってもいませんでした。

【糖尿病と診断された時】

 手術をしてもらったのは、実家の近くの病院でしたが、学校へ通うためにK市に住んでいました。回復後すぐに、K市での一人暮らしに戻りました。いつ頃というのはよく覚えてませんが、4月から5月くらいにかけてでしょうか、ちょっと疲れやすい、ちょっと喉がかわく程度の症状はうすうす感じていました。でも、やっと長い間辛かった足のしびれもとれ、そんな体の変調も気にも留めず、就職活動の時期がやってきました。
 「健康診断書」がいるのかぁ〜、保健所で健康診断をしてもらって、診断書をもらおうと思いながら、内心、ちょっと不安を抱えて、保健所で健康診断してもらった結果が、私と糖尿病と言う病名との出会いでした。保健所の係の人に、できるだけ早く精密検査を受けたほうがいいと忠告され、病院へ行きました。
 「負荷試験」を受け、診断の結果は、やはり糖尿病でした。K市で一人暮らしをしていたこともあり、その病院で続けて通院するのが無理でしたので、その病院で事情を説明して、K市でできるだけ早く治療をするように言われ、私は病院を探しました。でも、病院の設備、内容よりも、便利さを優先してしまいました。
 「内科」で、距離、診察時間帯が自分にあうところがいいと、安易な判断をしてしまっていました。私が、ドアを開けた病院は、小さな病院で、再度検査をしますということでしたので、また「負荷試験」をしたのです。当時の血糖の記録などが全くないので、はっきりした数字はわかりませんが、大変悪いといわれたのと同時に、この薬を飲みなさいと「ジメリン」と言うお薬をいただきました。そして、そこのお医者さんが、「K大学病院の専門医と相談して、頑張って治療していきましょう」と、言われたのを信じて、そのジメリンがどんな薬かもわからず、薬を飲めば直ると信じてました。 それが血糖降下剤ということすら知りませんでした。
 お正月には、ごちそうを食べたいだろうから、こっちの薬を飲みなさいと言われたこともありました。もちろん、食事指導というものもなく、看護婦さんが、「おさしみ」がいいよ、とか、「チーズ」がいいよとか、時々そんなことを言ってたのを思い出すくらいです。気分が悪くなったら、「飴をなめなさい」とも言われました。今思えば、低血糖の症状のことを言ってたのでしょう。良かったのか悪かったのか、血糖降下剤はほとんど効いてなかったので、低血糖になったことはありませんでした。血糖値の資料はありませんが、尿糖は「4+」より良かったことがなかったと記憶しています。
 結局、就職は健康診断書がいらない、学生時代からアルバイトしていた事務所に決まり、その病院に通いながら、特に何の支障もなく、1年ほど元気に働いて過ごすことができました。その時も、この薬を飲んでいるから大丈夫、と信じてました。ただ、合併症が起こるということは本などで調べていましたが、まるで人事のようにしか感じてませんでした。病気や他の諸々の事情で、一人暮らしを止めて、親のもとに帰ることになり、また、病院を変える必要がでてきました。
 U市では、評判のいい病院があり、内科と看板があがっているので、その病院に行ってみました(田舎町では、専門医をみつけることは難しいです)。ここでも、今までと同じ薬を処方してくれました。夕方、診察に行くのですが、血糖は250より減ったことは、なかったと思います。
 一応、U市でも、就職できていましたし、元気に働いておりました。食事療法の本を貸してくれて、これを読んで食べるものに気をつけなさいと言われた程度で、先生からは「入院してインスリンの注射をした方がいい」という話はあったのですが、インスリンへの抵抗や、入院への抵抗もあって、特に自分に辛い症状もなかったので、薬だけのみ続けました。
 そういう体の事情もありながら、結婚の話がまとまりました。その時は、それがどんなに大変なことかも、ほとんどわかってなかったと思います。結婚式も無事に終わり、H市の人になった私は、またもや、病院探しです。どこがいいのかわからず、夫の「ここなら評判が良い」という内科の門をくぐりました。そこの先生から、自分には無理だと、専門医の紹介を受けました。自宅からは、ちょっと遠いようだし、そのあたりの地理も全然わかりません。ただ、「この先生についていけば、大丈夫」と言われ、その診療所を訪れました。そこで、出会ったのが、今の主治医です。

 【患者である自分が主治医】

 もう手持ちの薬がないのに、薬は飲まなくていいと、おっしゃいました。薬だけが頼りだと思っていた私にとっては、とても不安でもありました。血糖も250以上あったと思います。そして、その診療所に通院して、2、3日で、インスリン治療が始まりました。インスリン自己注射も覚え、食事の勉強、低血糖症状の暗証、全てマスターしなければなりません。そして、計画妊娠の必要性、いろんな知識を叩き込まれました。
 自分自身が主治医でないと、毎日の生活はできません。この病気ばかりは、医者任せではコントロールできないと、ここで初めて自覚したのでした。
 実は、私は 一度も糖尿病で入院したことがないのです。今までの病院では、拒否し続け、今の診療所では、外来ですべて指導してくださいました。

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検査データ
S58年4月血糖値が286、HbA1が12.8
S58年5月血糖値が162、HbA1が10.5
S58年6月血糖値が100、HbA1が9.7
S58年10月血糖値が76、HbA1が7.4
(HbA1cの記録は残ってません)
以降は、血糖100以下HbA17%を維持、
変動はあるものの、コントロールは安定、
H8年10月血糖93、HbA1c5.1%です)
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 【妊娠】

 昭和58年6月、妊娠し、血糖の自己測定を始めました。インスリン注射も朝夕2回(まだ、2回でコントロールできていたので、よかったとも思いますが・・・)妊娠中のコントロールは、血糖自己測定の結果をみながら、主治医に、インスリンの量を調整してもらい、良好なコントロールを保つことができました。
 出産は、糖尿病の出産の経験があるT先生がいらっしゃる病院を紹介され、その病院で産むことになりました。少し距離はありましたが、お腹の子も臨月まで順調に成長して、予定日の1ヶ月前になると、急な変化が起きたらという病院側の心配もあり、入院することになりました。
 そして、予定日より早く、破水、その翌日、普通分娩で出産。小児科にも連絡をとってもらって万全の体制で準備してくださっていましたが、子供は、2940グラム、検査の結果は正常。私の血糖も正常(インスリン注射をしながらですが)で、退院は出産後1週間で親子揃って無事退院できました。
 おかげさまで、母乳もよくでたので、10ヶ月間、母乳だけで育てることができました。
 インスリン注射をしながら、血糖の自己測定でコントロールの管理、母乳で娘を育てて、しかも、出産後2ヶ月で、職場復帰しました(母乳の時間は、休憩をもらって帰ってました)。今思えば、よく頑張れたなぁ〜と思います。
 そして、61年二人めの妊娠です。2人めのときは、近くの総合病院でお世話になりました。1人目と同様、コントロールは順調にいきました。今度は、前もって入院することもなく、陣痛がきてから、病院へいき、その日に無事出産、3054グラムの健康な子供でした。この時も出産後1週間で退院、母乳だけで、10ヶ月育てました。コントロールをうまくしていただいたので、合併症もなく、元気な子供を産むことができて本当によかったです。もちろん、インスリン注射を朝夕2回しながらです。
子供は、私がどんな病気かわからないながら、毎日注射をしているのを見ていますから、お母さん、「いたい、いたい、するの? 私も、大きくなったら、しなければならないの?」と何歳のときか、言ったことがありました。自分の子には、絶対、この病気にはなってもらいたくないと思います。

【低血糖昏睡】

  私は、糖尿病だからできないということはないと思っています。 やりたいことは、どんどんする。インスリン注射をしているからって、制限されることはほとんどないと思っています。どこに行くときも、インスリンは忘れてはならないのですが、どこかへ行くこと、何かをすることを制限されることはないと思っています。
 毎日の生活の中で、守らなくてはならないことがいくつかあります。そのひとつ、食事時間を遅れないようにすることです。一度、大きな失敗を致しました。お客様が来る予定で、6時に食事をする予定が、お客様が遅れたのです。普通より、運動量が多かったのと、予定の時間に食事ができなかった、その上、インスリンの注射はいつもの時間にしていたのが重なって、低血糖昏睡を起こしてしまいました。
 昏睡状態の時のことは、自分では覚えていませんが、すぐに、夫が砂糖を飲ませようとしたのですが、口をあけない、もうどうしようもない状態だったようです。すぐに主治医に連絡して、自宅近くの病院に連絡をとってもらい、ブドウ糖の注射をしていただき、すぐに意識を回復することができました。気がついたら、自分でさっとベットから立ちあがり、ぼーーっと身内の人の顔が見えてきたら、なんとなく恥ずかしい気持ちでいっぱいでしたが、そのまま、自宅に帰って用意していた食事を、何もなかったように食べました。この時ばかりは、低血糖の怖さを身をもって感じました。「低血糖」をあまくみていたのだと、反省しました。
 低血糖症状が全くなかったわけじゃないと思います。これくらい大丈夫だろう・・・が危険なんですね。この時、一人だったら・・・・、いやいや、一人だったら、食事の時間に遅れることがなかった。そうそう、人と一緒に行動するとき、きっちりと時間を守らなくては「危ない」と思いながら、相手に対して、気を遣うのが、この病気を持ちながら生活する上での一番の難点ですね

【実生活の上では・・・】

 普段は、規則正しい真面目な生活ですが・・・・外食は、よくします。時々と訂正しておいた方がいいかもしれませんが・・・・
 夕食前にインスリン注射をしますので、夕食が外食のときは、注射器を持参しています。注文をしてから、注射をします。もちろん、その場でする勇気はありません。個室となれば、トイレでしょうか。時には、車の中で注射することもあります。人前で注射をすることができるようになったら、一人前でしょうね。まだまだ修行がたりません。
 患者でない人も、糖尿病患者の生活をもっと理解して欲しいと思います。元気に働けているので、病人として扱って欲しくないのですが、患者が持ついくつかの制限は、病気があるからと、やはり病人になってしまうのでしょうか。
 旅行も、インスリンを持って、どこでも行ってしまいます。何かしたい、遊びたい、ごちそうを食べたい、そんな欲求を、制限する必要はないと、勝手に決めています。たまには、美味しいものも食べたいじゃないですか。「あれは、駄目、これは、駄目」と欲求をおさえて、ストレスを溜めるより、コントロールを維持して、普段の生活をまじめにしていれば、楽しみを持つ方がいいじゃないですか。規則正しい生活は、実際慣れるまでは大変でした。でも、身についてしまえば、何も苦痛なことじゃありません(コントロールが維持できるまでは、まじめにしないと駄目だと思いますけどね・・)。

上の娘は、今年から中学生、子育てからちょっと解放されて、自分の時間をいかに有意義に過ごそうか、ルンルン気分です。

【ひとこと】

 17年、長いようで短かったような気がします。私は、「運」がよかったのでしょう。そんな気がします。症状のない病気って恐いです。痛いところは、痛みがなくなったら「治った」ということになりますが、この病気は、診断されたら一生続くのですよね。そう思ったら、病気と仲良くするしかないと、ひらきなおっています。
 今で人生半分です。コントロールは、これからも手を抜くわけにいきませんし、合併症だけはおこしたくないです。今年の年賀状に「前進あるのみ」と書きました。後悔しない人生をおくるために、頑張りましょう。


         平成9年1月  なおちゃん


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